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「田能(たのう)遺跡」
(兵庫・尼崎市/07.05.13) |
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【田能(たのう)遺跡】 昭和40年9月、尼崎市田能字中ノ坪(現在の田能6丁目)一帯で行われていた尼崎・伊丹・西宮三市共同による工業用水園田配水場の工事現場の随所で大量の弥生土器が発見されたことから、 この地域が大規模な遺跡地であると推定され、10月より発掘調査が開始されました。 この発掘調査により、大量の土器や石器のほか、碧玉製管玉、白銅製釧、銅剣鋳型(この3点は兵庫県指定文化財)など貴重な遺物をはじめ、住居跡や柱穴・溝などの遺構が発掘されました。 なかでも、装身具を身に付けた遺体を葬る木棺墓のほか、土坑墓・土器棺墓等17基の墓の発見は、当時まだ不明だった近畿地方における弥生時代の墓の形態や埋葬状況を明らかにし、弥生時代の人々の社会関係を知る端緒となりました。発見された遺構・遺物から、田能遺跡が弥生時代のほぼ全期間に及ぶ大集落跡ということがわかり、田能遺跡の重要性はますます高まり、尼崎市は調査期間を延長させ、昭和41年2月には尼崎市田能遺跡発掘調査委員会を発足させて、調査の体制を整え発掘が続けられました。発掘には全国から一般市民・学生など多くの方々の参加がありました。そして、新聞・テレビを通した報道によって遺跡に対する関心は全国に広まっていきました。しかし、この重要な遺跡は調査終了後には配水場建設によって破壊される予定となっていたため、市民の間には遺跡を破壊から守り永久保存を訴える声が高まり、遺跡の重要性を訴える講演会や保存の署名運動などが進められました。これに対して尼崎市は、昭和41年6月に重要な遺構・遺物の出土した配水ポンプ室予定地(現在の公園部分)を中心とした約5,200平方メートルの保存を決定しました。 遺跡は約3メートルの盛土で保護し、昭和42年から3年計画で史跡公園として整備しました。一隅には、出土遺物を収納し展示する収蔵・展示棟を建て、屋外には円形住居・方形住居・高床倉庫等を復元し、方形周溝墓や10基の墓の原位置上に池や花壇を配して標示し、周囲を植栽して昭和45年7月25日に田能資料館として開館しました。 この間、昭和44年6月30日には国の史跡に指定されています。 cf.情報の発信元:教育委員会事務局社会教育部社会教育課 |