|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
【丸岡城〔別名:霞ヶ城(かすみがじょう〕】 丸岡の街の北東部、家並みを見下ろす小高い丘の上に残る平山城です。 丘は昔、継体(けいたい)天皇の御子椀子(まりこ)皇子がうぶ声をあげたという伝説にちなんで、椀子岡と名づけられ、いつの間にか、丸岡と呼ばれるようになったという。 柴田勝豊(勝家の甥)が天正4(1576)年、北ノ庄城(福井)の支城として築城した城で(別名:霞ヶ城)、屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財です。 天守は初期天守の特色を濃厚にあらわしています。 現存の二重三層の天守閣は、入母屋造りの屋形に回縁勾欄付きの望楼(廻縁をぐるりと巡らした望楼)を乗せた形式は、犬山城や高知城と同様であり、直線的な屋根の破風、太い出格子、黒い板壁などは初期天守に顕著な特徴です。 石垣は、「野づら積み」という古い方式で、すき間が多く、粗雑な印象ながら排水が良く、大雨に崩れる心配はありません。 cf. 「丸岡城の伝説」 [その1] 一度ならず一度、三度と崩れ落ちる石垣に、ついに人柱を立てることになった。そこで選ばれたのが、美しい生娘でなく、お静という夫に先立たれた後家。しかも、二人の子持ちのうえ、片眼を失明していた。 お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められた。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立った。 だが、お静の約束は、果たされなかった。 お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになった。そして時折現れては、恨みごとを述べたという。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っている。 また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになった。 堀の藻を刈り取る時の作業唄にも、『堀の藻刈りに降るこの雨はいとしお静の血の涙』と唄われるようになった。 [その2] ある時、奇襲によって、城は幾重も包囲された。老いも若きも剣、弓を手にとって防戦につとめた。敵前にむかった男どもは全滅。美しい姫が女中どもの指揮をとった。 姫はつぶらな眸に無念の露を湛えて『生きて落城の憂き目を見んよりは、死してなお城を守らん』と、して玉の肌の紅葉を散らせた。 敵勢は破竹の勢いをもって、軍馬を進め、ついに出丸の攻略にかかった。その折、俄に霞が吹き出した。敵兵の一寸前は闇と化した。 ここで、寄せ手は退却、城は無事であったが、この霞は姫の化身だった。今もこの伝説の井戸が天守入口近くに霞の井戸として残る。 [その3] 城の別名『霞ヶ城(かすみがじょう)』にちなむもので、そのいわれは、もともとこのお城には守護神の大蛇が棲んでいて、いざの時に、霞を吐いて城を包み隠すからだというのである。 元来、この地は『継体(けいたい)天皇』発祥の地で、城のあるこの丘は、天皇の第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられている。 古くは、『麿留古平加(まるこのおか)』と呼ばれていた。それが『丸子の岡』となり、やがて『丸岡』という地名を生んだとされる。 だから、この椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐いて、この地を守護してくれるのだという。 しかし、実際には、この地方は九頭竜(くずりゅう)川の支流竹田川が流れていることもあって、気象的に朝な夕なに霞がよく立ち込める多雨多湿の土地であるというのが、本当のところのようだ。 |