「清洲城(清須城)」(愛知・清須/06.11.12)

「清洲城(清須城)」(愛知・清須/06.11.12) ・ 「清洲城(清須城)」(愛知・清須/06.11.12)

「清洲城(清須城)」 (愛知・清須/06.11.12)

望楼型独立式平城復興天守(1989年復元)

清洲城(きよすじょう)
 室町時代の初め、尾張の守護職であった斯波義重は、清洲に守護所下津城(現稲
沢市)の別郭として清洲城を築き、織田敏定を守護代としてその勢力保持をはかっ
たといわれています。
 文明8年(1476)守護所下津城が戦乱により焼かれ、清洲に守護所が移って
尾張の中心地となり繁栄の時代を迎えます。斯波氏は当時、室町幕府を支える三管
領(斯波、細川、畠山)の家柄で、将軍家に次ぐ有力な守護大名でした。
 この後、弘治元年(1555)には織田信長公が那古野城から清洲城に入城、桶
狭間で今川勢と戦ったとき、この清洲城から出陣をし大勝しています。
 本能寺の変のあと清洲城主は次男の信雄となり、天正14年(1586)大改築
され、内・中・外の三重の堀を構えた大城郭に生まれ変わります。このときの城下
の範囲は東西1.6km、南北2.8kmに及んだと伝えられています。
 その後、慶長15年(1610)徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、慶
長18年尾張の都「名古屋」がほぼ完成しました。信長公の偉業を告ぐ2人の天下
人豊臣・徳川のお膝下にあって「東海の巨鎮」、「天下の名城」などと賞賛を博し
た清洲城は、6万都市とともにその姿を消しました。これを「清洲越し」といいま
す。
 当時の臼引歌は、そのありさまを「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野
となろう」と唄っていますが、まさにその通りでした。
 織田信長・信忠父子亡き後の清洲城主は、信長の次男信雄・豊臣秀次(関白)・
福島正則(秀吉腹心の大名)・松平忠吉(家康の四男)・徳川義直(家康の九男)
と代わりました。当時、時の為政者が天下を統一、掌握するに当たって、清洲をい
かに重要視していたかがうかがえます。
 なお、名古屋城築城に際し、清洲城も築城の材料として積極的に利用され、特に
名古屋城御深井丸の西北櫓は、清洲城天主の古材でつくられました。この西北櫓は
「清洲櫓」とも呼ばれ、今も堀に美しい姿を写しています。

清洲城(清須城)に行って来ました。残念ながら、タイムアウトで天守閣には登ることが出来ませんでしたが、外から眺めさせて貰いました。写真では暗くて見にくいけれど、正門と城の間の庭園が印象的でした。