【明智光秀(あけちみつひで)】
(1528−1582)戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。通称、十兵
衛。日向守。近江坂本城主。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都
本能寺に信長を襲い自害させた。同一三日、山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ
、逃走中土民に殺された。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
cf.
【本能寺の変(ほんのうじのへん)】
1582年、毛利氏と対戦中の羽柴(豊臣)秀吉救援のため本能寺に宿泊中の織
田信長が、やはり中国攻めのため丹波亀山城まで先発していた明智光秀に襲われ自
害した事件。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【一休(いっきゅう)】
(1394−1481)室町中期の禅僧。諱(いみな)は宗純。号、狂雲子。後
小松天皇の落胤(らくいん)といわれる。京都大徳寺住持となるが同時に退山。禅
宗の腐敗を痛罵(つうば)して自由な禅のあり方を主張。詩・狂歌・書画に長じ、
また数々の奇行で有名。いわゆる一休頓智(とんち)話の類は後世の仮託。著に詩
集「狂雲集」など。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【上杉鷹山(うえすぎようざん)】
(1751−1822)江戸中・後期の大名。米沢藩主。名は勝興・治憲(はる
のり)。鷹山は号。藩政の改革に努め、自らも節倹を率先励行、財政改革・殖産興
業・新田開発を行い、藩政を立て直した。藩校興譲館を設立。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【大島蓼太(おおしまりょうた)】
(1718−1787)江戸中期の俳人。本名、吉川陽喬。信濃の生まれ。雪中
庵二世吏登に師事し、のち三世を継ぐ。江戸座に対抗し、一大勢力を築く。著「雪
おろし」「芭蕉句解」「蓼太句集」など。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【快川紹喜(かいせんじょうき)】
(?−1582)室町末期の臨済宗の僧。美濃の人。武田氏に招かれ、甲斐の恵
林寺(えりんじ)に住す。武田勝頼が織田信長に攻められた時、恵林寺にて諸僧と
ともに火中に没した。
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【空海(くうかい)】
(774−835)平安初期の僧。日本の真言宗の開祖。諡号(しごう)、弘法
大師。讃岐の人。804年最澄(さいちよう)らとともに入唐し、長安の青竜寺恵
果(けいか)に学ぶ。806年帰朝して高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)を開く。
嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜り、その翌年には大僧都に任ぜられた。日本
最初の庶民学校である綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を設立。書にすぐれ三筆
の一人にあげられ、「風信帖」などの名品がある。また、詩文にも秀でた。後世、
広く庶民信仰の対象として尊ばれた。著「三教指帰(さんごうしいき)」「十住心
論」「弁顕密二教論」「性霊(しようりよう)集」「文鏡秘府論」「篆隷(てんれ
い)万象名義」ほか。
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cf.
【三筆(さんぴつ)】
三人のすぐれた書家。特に、嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)・空海の
三人。ほかに、藤原行成・藤原行能・藤原行尹(ゆきただ)(世尊寺流)、本阿弥
光悦・近衛信尹(のぶただ)・松花堂昭乗(寛永の三筆)、隠元・即非・木庵(黄
檗(おうばく)の三筆)などをいう。
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【月性(げっしょう)】
(1817−1858)幕末の僧。周防の妙円寺(真宗本願寺派)の住職。吉田
松陰らと交わり、勤王派として活躍。攘夷海防を説く。「男児志を立てて郷関を出
づ…」の詩がある。
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【源信(げんしん)】
(942−1017)平安中期の天台宗の僧。恵心僧都・横川(よかわ)僧都。
大和の人。比叡山で良源に師事し、横川恵心院に住す。「往生要集」を著して浄土
教の興隆に大きく貢献し、また文学・芸術にも多くの影響を与えた。一方、天台宗
恵心流の祖とされ、中古・中世の天台本覚思想の先駆をなした。著「一乗要訣」「
観心略要集」「阿弥陀経略記」など。
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【西行(さいぎょう)】
(1118−1190)平安末期から鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清(のりき
よ)。法号、円位・大宝房など。もと北面の武士。二三歳で出家。陸奥(むつ)か
ら四国・九州まで諸国を旅し、河内の弘川寺で没す。生活体験のにじみ出た述懐歌
にすぐれ、「新古今集」では集中最高の九四首が入集。家集「山家集」、聞書「西
公談抄」がある。「撰集抄」は仮託だが後世の西行観に大きな影響を与えた。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【最澄(さいちょう)】
(767−822)日本天台宗の開祖。姓は三津首(みつのおびと)。近江の人
。比叡山に入り法華一乗思想に傾倒し、根本中堂を創建。804年入唐、翌年帰国
し、天台宗を開創。「山家学生式(さんげがくしようしき)」をつくって大乗戒壇
設立を請願したが、南都の反対にあい、死後七日目に勅許がおりた。日本最初の大
師号伝教大師を勅諡(ちよくし)される。書状「久隔帖(きゆうかくじよう)」は
名筆として知られる。著「顕戒論」「守護国界章」など。叡山大師。山家大師。根
本大師。
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【桜井忠温(さくらいただよし)】
(1879−1965)陸軍軍人・作家。愛媛県生まれ。士官学校卒業後、日露
戦争に出征、旅順攻撃の際に負傷。その体験を描いた「肉弾」「銃後」は広く読ま
れた。
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【聖徳太子(しょうとくたいし)】
(574−622)用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇
后。名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。上宮太子(うえのみやのみこ
)・法大王(のりのおおきみ)・上宮聖王などとも呼ばれた。聖徳太子は諡号(し
ごう)。推古天皇の摂政として冠位十二階・十七条憲法を制定。小野妹子(いもこ
)を隋に派遣して国交を開いた。また、広く学問に通じ、深く仏教に帰依(きえ)
して、法隆寺・四天王寺ほか多くの寺院を建立するなど仏教振興に尽くした。著「
三経義疏」
−三省堂提供「大辞林第二版」−
cf.1
【諡号(しごう)】
生前のおこないをたたえ、死後におくる名。おくりな。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
cf.2
【十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)】
604年、推古天皇のとき、聖徳太子の制定と伝えられる一七条から成る条文。
貴族や官吏に対する道徳的規範を示したもので、特に天皇中心の秩序を確立しよう
とする意図がみられる。仏教思想を基調とし、儒家・法家の思想の影響が強い。憲
法十七条。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
cf.3
かつて聖徳太子の肖像が印刷されていた紙幣の俗称。一万円札、それ以前は千円
札をさした。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【親鸞(しんらん)】
(1173−1262)鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別称、範宴・綽空(し
やくくう)・善信。諡号(しごう)、見真大師。日野有範の子と伝える。初め比叡
山で天台宗を学び、のち法然の専修念仏の門に入る。1207年念仏停止の法難に
遭い、越後に流罪。赦免ののち長く関東に住み布教と著述を行う。法然の思想をさ
らに徹底させ、絶対他力による極楽往生を説き、悪人正機を唱えた。主著「教行信
証」は、他力の立場から浄土教の教理を純化・体系化したもの。ほかに「唯信鈔文
意」などがある。唯円編の法語集「歎異抄」は有名。妻は恵信尼。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
cf.
◎悪人正機:あくにんしょうき −親鸞(シンラン)−
悪人こそまさしく阿弥陀仏の本願に救われる対象であるということ。親鸞の説
いた、浄土真宗の根本的な思想。
【正機(しょうき)】
〔仏〕 教化・救済を受ける条件を適切に備えている人々。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【菅原道真(すがわらのみちざね)】
(845−903)平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公(かんこう)・菅丞
相(しようじよう)と称される。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭
などを歴任、右大臣に至る。この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止
。901年藤原時平の讒訴(ざんそ)で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性
謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられ
た。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂(へんさん)参与。詩文集「菅家文
草」「菅家後集」
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【千利休(せんのりきゅう)】
(1522−1591)安土桃山時代の茶人。千家流茶道の開祖。和泉国堺の人
。法名は宗易。村田珠光相伝の侘茶(わびちや)を武野紹鴎(じようおう)に学ぶ
。茶器および諸道具に工夫をこらし、簡素・清浄な茶道を大成。織田信長・豊臣秀
吉に仕えて御茶頭(おさどう)となり、天下一の宗匠と評される。政治にも参画す
るに至ったが、秀吉の怒りを買い自刃を命じられた。
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【伊達政宗(だてまさむね)】
(1567−1636)安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。輝宗の長男。幼
名、梵天丸、長じて藤次郎。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢
を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦い
では徳川方。戦後、仙台藩六二万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣。和歌
・茶道に通じ、桃山文化を仙台に移した。
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【筒井順慶(つついじゅんけい)】
(1549−1584)戦国大名。大和筒井城主。松永久秀を討って大和一国を
支配。以後、織田信長に属す。本能寺の変では明智光秀に誘われたが居城を動かず
、山崎の戦いののち、羽柴秀吉に参じた。そのため洞ヶ峠(ほらがとうげ)に軍を
とどめて形勢をうかがって日和見(ひよりみ)を決め込んだという俗説が生まれた
。
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【道元(どうげん)】
(1200−1253)鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。京都の人。号は希
玄(きげん)。諡号(しごう)承陽大師。久我通親の子。比叡山で天台宗を、建仁
寺で禅を学んだ。1223年入宋。帰国後、京都深草に興聖寺を開く。44年越前
に移り、大仏寺(のちの永平寺)を開創。修証一如・只管打坐(しかんたざ)の純
一の禅風で知られる。著「正法眼蔵」「永平清規」など。
−三省堂提供「大辞林第二版」−
【豊臣秀吉(とよとみひでよし)】
(1536−1598)安土桃山時代の武将。尾張中村の人。織田信長の足軽木
下弥右衛門の子。幼名日吉丸。初名木下藤吉郎。のち羽柴秀吉。織田信長に仕え、
軍功によって重用され、筑前守となる。本能寺の変後、明智光秀を討ち、四国・九
州・関東・奥羽を征して1590年天下を統一。この間、85年関白、翌年豊臣姓
を賜って太政大臣となり、91年関白を養子秀次に譲り太閤と称した。また、検地
・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。文禄・慶長
の役で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城で病没。
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【藤原兼輔(ふじわらのかえすけ)】
(877−933)平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。従三位中納言兼右衛門
督。邸が賀茂川の堤近くにあったので堤中納言と呼ばれる。「古今和歌集」以下の
勅撰集に五五首入集。著「聖徳太子伝暦」、家集「兼輔集」
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【藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)】
〔名は「としなり」とも〕(1114−1204)平安末期・鎌倉初期の歌人・
歌学者。名は初め顕広。法号、釈阿。定家の父。五条三位と称された。後白河院の
命により「千載和歌集」を撰進。古典主義的立場に立ち幽玄の理念を樹立、王朝和
歌を統合的に継承するとともに中世和歌の出発点を築いた。歌論「古来風体抄」、
家集「長秋詠藻」などのほか、書の名筆を多く遺す。
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【松江重頼(まつえしげより)】
(1602−1680)江戸初期の俳人。通称大文字屋治右衛門。別号、維舟(
いしゆう)・江翁。松永貞徳の門に入ったが、のち離れる。宗因の談林俳諧展開に
大きな影響を及ぼした。門下に上島鬼貫・池西言水など。編著「犬子(えのこ)集
」「毛吹草」「佐夜中山集」など。
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【松尾芭蕉(まつおばしょう)】
(1644−1694)江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名を宗房。別号、
桃青・泊船堂・風羅坊など。仮名書き署名は「はせを」。藤堂藩伊賀付侍大将家の
嫡子藤堂良忠(俳号蝉吟)の近習となり、その感化で俳諧を学ぶ。良忠の病没後、
京都で北村季吟に師事。のち江戸に下り、俳壇内に地盤を形成、深川の芭蕉庵に移
った頃から独自の蕉風を開拓した。「おくのほそ道」の旅の体験から、不易(ふえ
き)流行の理念を確立し、以後その実践を「細み」に求め、晩年には俳諧本来の庶
民性に立ち戻った「軽み」の俳風に達した。俳諧を文芸として高めた功は大きい。
後世、代表作を「俳諧七部集」に収める。主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈
(おい)の小文」「更科紀行」「おくのほそ道」「幻住庵記」「嵯峨日記」などが
ある。
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cf.
【不易流行(ふえきりゅうこう)】
俳諧の特質は新しみにあり、その新しみを求めて変化を重ねていく「流行」性こ
そ「不易」の本質であるということ。蕉風俳諧(ショウフウハイカイ)の理念の一
つ。
【不易(ふえき)】
いつまでも変わらない・こと(さま)。不変。
【流行(りゅうこう)】
(1)ある現象が、一時的に世間に広まること。特に、ある型の服装・言葉あるい
は思想・行動様式などがもてはやされて、一時的に広く世間で用い行われる
こと。はやり。
(2)ある病気が、短期間のうちに世間に広がること。
(3)俳諧で、時代とともに絶えず変わり、新しくなるもの。
【俳諧/誹諧(はいかい)】〔たわむれ、おどけ、諧謔(かいぎやく)の意〕
(1)〔「俳諧の連歌」の略〕日本独自の短詩形文芸形式の一。「座(共同体)」
の意識のもとに成立し、「滑稽」を本質とする文芸。発句(ほつく)・連句
・前句付・俳文などより成る。室町末期の山崎宗鑑・荒木田守武らによる滑
稽・卑俗な作風を受け、江戸時代に松永貞徳が出て独自なジャンルとして確
立。談林俳諧を経て松尾芭蕉の蕉風に至って文学的に高められた。→俳句
(2)「俳諧歌(はいかいか)」の略。
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【紫式部(むらさきしきぶ)】
(973頃−1014頃)平安中期の女流作家・歌人。藤原為時の女(むすめ)
。はじめ藤式部と呼ばれる。藤原宣孝と結婚、大弐三位を生むがまもなく夫と死別
。その後、源氏物語の執筆を始める。才媛のほまれ高く、一条天皇中宮彰子(上東
門院)に仕え、「白氏文集」を進講。藤原道長や藤原公任らとの交流もあった。ほ
かに「紫式部日記」「紫式部集」などの著がある。
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【永観(えいかん)】
⇒ようかん(永観)
【永観(ようかん)】
(1033−1111)平安後期の僧。浄土教興隆の先駆者。南都で三論などを学
び、三〇歳のとき浄土信仰に入った。のち京都の禅林寺に住し、三論および浄土教
を説き念仏を広めた。著「往生拾因」「往生講式」など。えいかん。
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【頼山陽(らいさんよう)】
(1780−1832)江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人・書家。名は襄(の
ぼる)、通称は久太郎、別号を三十六峰外史。春水の長男。江戸に出て尾藤二洲に
学ぶも、性豪放にして遊蕩に日を送り、自邸内に監禁。のち上京して書斎「山紫水
明処」を営み、各地を遊歴、文人墨客と交わり、すぐれた詩文や書を遺した。その
著「日本外史」は幕末期における歴史観に大きな影響を与えた。他に著「日本政記
」「日本楽府」「山陽詩鈔」など。
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